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海外旅行紀行・戯言日記

海外旅行紀行・戯言日記

幻想都市プラハ

1992年新潮社から刊行された饗庭氏著「幻想の都市」からの抜粋です。

プラハ城の基礎は、スラブ系の民族王朝プシェミスハル家によって9世紀に建てられるが長くは続かず絶えてしまい、他民族の支配を受けることになった。ドイツ皇帝家系のルクセンブルク家が取って代わり、2代目のカレル(1346-1378)に至っては神聖ローマ帝国の首都にもなった。その後、1512年以来、ウィーンのハプスブルク家のドイツ化支配が始まり、1918年のオーストリア-ハンガリー帝国の崩壊までその支配は続いたのである。
従って、人口比にすればドイツ系住民の比率は圧倒的に小さく、大多数を占める被支配階級のチェコ系住民にとって、プラハ城は愛憎のこもる歴史の象徴となったことは否めない。少数の民族にはドイツ人以外に、カフカもその一人であったユダヤ人がいる。歴史の過程でドイツ系ユダヤ人が増大し、富裕なものは新市街に住み、そうでないものは旧市街のユダヤ人ゲットーに暮らすこととなった。彼等は、若干の例外を除けばチェコ系住民から陰に陽に憎まれていたことに変わりは無い。その意味ではドイツ系ユダヤ人が最も嫌悪されたのである。つまり、支配者のドイツ語を話す上に、本来的なユダヤ人蔑視がそこに加わっていたからであった。1880年以降はチェコ民族運動による緊張によってユダヤ系以外のドイツ人が流出し、ナチスがプラハ占領した1939年には、総人口100万の内、ドイツ系はわずか6万人であったと言う。

この町はバロック様式の建物で満ちているが、ウィーンとは異なりハプスブルク家の権力の中心になったことは無い。1402年、ベトレヘム礼拝堂の説教師となったヤン・フスによるチェコ語の説教と免罪符の拒否に端を発したフス派宗教革命とカトリックの抗争、結果としてのプロテスタント排除がきっかけとなって、ハプスブルク家によるドイツ化とイエズス会の発展が、プラハの町にバロック様式をみなぎらせたのだ。ルネッサンスからマニエリスムを飛び越えて一足飛びにバロックになったのである。

ボヘミヤ音楽を世界に広めたドボルザークやスメタナには記念館があるのですが、文学にて同等若しくはそれ以上の足跡を残したカフカやリルケには何一つ無いプラハの今日はどうなって行くのだろう。
リルケは民族を超える芸術の意味を語っており、それはチェコ、ドイツ、ユダヤ系を越えた精神の「別の国」に内面を高める意義をもっており、プラハの都市発展の意思を見ることが出来ると思われる。

プラハの春からの30年の長い期間の弾圧を経て、自由主義国家チェコ共和国の首都プラハは建設ラッシュに燃えている。貴族の家と思われる住宅もホテルに改造される等、資本主義への移行が急展開中です。
95Prague

北大西洋条約機構(NATO)にも加盟して、経済発展が期待されている。2002年の100振りの洪水災害にも拘わらず、その方向は変わりようが無いと思われます。しかし、リルケの言う「芸術が抵抗によって生き、自由によって滅びる」がどの様に展開していくのか注目される所です。


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